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その2のつづきです。


<狂気の天才を待つ時間>

つれづれとした、世間話ですが。
最近、「狂気の天才」タイプの知人が、かなり突き抜けたところまで行ったようで、
また少しでも、楽になってきて、良かったなと。

その「狂気の天才」は、科学者か、カウンセラーが似合うタイプで、実際にはバッチフラワーカウンセリングと親行(人間関係トレーニング)を学んだ、まあ、カウンセラーのセミプロです。

彼女の両親は農家で、そのお宅には水田体験に行ったこともあり、毎年、野菜と餅をくれる感じの、通常はあきらかに善良と言える、両親と兄夫婦なんですよ。
ぜんぜん落ち度を感じないような。

しかし、善良な農家に、「狂気の天才」が生まれてしまっても、受けとめきれなかったのは当たり前だった。みたいな感じだったようです。

本人からこんな感じの総括的説明を受けました。

「人が良くまじめで優しい家族に対して、狂ったように怒りや悲しみを撒き散らし、当てつけのように自分を傷つけて家族に見せたり、罪悪感や家族に感じていた嫌悪感を出してしまいたくて、自分は摂食障害してたと最近眺めています。
 やっと、今までより実質的に、家族との関係からも抜け出す時がきたと思います。
自分を愛して自立を許し、家族に親切にしたい。わたしもおとなになりたい。もうなっていいんだっていう、本当にシンプルな願いから、私は今までからの脱皮を心底願う最近です。」
                  

状況は、少しずつ動き始めたようです。

ご両親が、無関心ではなくても、本人が世間や何らかの異和感に対し、超感覚的に過敏にすら感じる「狂気の天才」だと、つまり「本人の異和感>>>>>両親の異和感」となり、両親に対して無神経だと追いつめているのと、同じ状態になっていたのかもしれません。

「狂気の天才」本人も、両親の善良さがわかるために、責められず。結果、深層心理で自分を責めてしまい、発症したのではないかと思っています。自意識では、悲しみが多かったようです。

ある意味、その方は「待つ」のだけでも大変な、本当に「狂気の天才」タイプでした。
知り会ってから8年ほどでしょうか。

最初はやさしいタイプの仲間たちに、完全に任せてあまり直接的に関わらないようにしていました。(笑)
そして、異文化交流のように、徐々に話が深く通じて来て、そしてやっと小さな変化が表面にも大きく影響を及ぼすように、なってきたようです。

しかし、この変化は、あくまで本人の解釈によるもので、他の外側からの影響というよりは、本人の「分裂していた内部意見どうしの統合」による変化だと、そう感じているんです。

本人の、自分の人生や、自分が感じてしまう異和感へを覚悟を、待つしかないわけです。本人の問題だから。

だいたい、そういう「狂気の天才」タイプが、他人の言うことや判断を、簡単に聞くわけがないんです。

そう思えば、ある意味、面白いんです。
聞くわけがない人に、私は何を一生懸命に話しているのか?そもそも一生懸命なのか?
すると気が付くわけです。一生懸命な方が相手をかすかに見下していて、むしろ楽しく不真面目に話す方が馬鹿にしてない尊重の態度だと、ある意味言えるのだと。

「狂気の天才」相手には、しょっちゅう面食らいながら、マジでうけながら、そんな風に、「待つ」しかないんです。くりかえしますが、本人の問題だから。

そういう、才能ある、マジで「狂気の天才」が
反省はせずに、ある意味、諦めるまで。(笑)
そんな風に、結果を覚悟して「待ち」ます。

実は、あまり反省させちゃダメだし。自己肯定感も自己判断への自信もなくなるから。
それに、何であれ、諦めさせようとすると、諦めない。諦めるわけない。

本当は私は、何であれ諦めない方がいいと、思っているくらいだし。
でも、そう思って接していると案外、諦めちゃうんだな。余計なことは。(笑)
つまり、本人にとって余計なものは諦めた方が、本人にとって大切なことを諦めないですむ。ということなんです。

そして、ここが大切なんですが、
『本人にとって何が大切かは、人によって違うから、なにがなんだかマジでわからん。』
って、しっかり思って接しないと、偽りになるということなんです。

「待つ」についてのところでも話してますが、合理的な判断を、どんなに正しそうでも、簡単に押し付けちゃダメなんです。合理を「押し付け」ずに、うまく「覚悟ない状態」の本人に「仕向け」ても同じです。「合理の押し付け」より、もっと悪い。「合理の仕向け」られ感が多いと、感謝ができなくなりますから。

正統にしつけとして、むしろ「押し付け」ないといけないのは、親や上司自身の「覚悟からくる判断」なんです。覚悟して生きる姿を見ないと、覚悟が分からないからです。
だから、「合理の押し付け」はダメですが、「覚悟の押し付け」はむしろ必要なんです。

でも、世の中からは、「覚悟の押し付け」は悪いものとされて減り、覚悟ない合理の判断ばかりが優しく「仕向け」られていき、結果、感謝や因果応報の分からない、覚悟ないずるく自信のない人が、だんだん増えていっているようです。

「一見」優しく「仕向け」て本人の覚悟がないうちに、色々と表面的には合理的に「見える」ことを決めさせても、それは「偽りの尊重」だから「偽りの結果」になるのは、これも当たり前です。

それをしていると、相談者と共依存の状態になりやすく、互いに強迫観念的に教義のように合理と善意の判断をしなければならなくなり、相談者を言わば正解専門のロボットのような状態にしてしまい、正解しか言えないような「暗示」にかかったタイプにしちゃうことになります。

だから、そうならないためには、「待つ」しかないんです。特に「狂気の天才」は。(笑)
互いに依存にならぬよう、念のため、覚悟をやや、「押し付け」て見せながら。(笑)

うわあ、分かってしまうと、やや、いやらしいかもしれないので、これも、もう一度。

『本人にとって何が大切かは、人によって違うから、なにがなんだかマジでわからん。』

とか、「マジで面白がって、うけながら。」


<命の不正所有をしない覚悟>につづく
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