上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
その3からのつづきです。

<命の不正所有をしない覚悟>

自分の患者や生徒や子供に、死なれるのって、とにかくいやですよね。
だから、死なれる覚悟からは、絶対に逃げたいし、逃げて逃げて、合理的判断に逃げることが多い。
でも、命って、命こそ、合理性だけじゃ計算できない、判断できないものだと思うんですよ。

死ぬかもと思ってたら、案外、死なないで生きるかもしれない。
あるいは、死ぬしかない事情があるのかもしれない。
何を覚悟して、何に命をかけているのか、ひとりひとり違っていて、分からないから。
祈るような気持ちで、命を大切に、最善を尽くしながら触れる。でも、「正解は、分からない。」

そう思えないと、患者や生徒や子供の命を、自分の価値観の合理性で洗脳して、その「暗示」で、自分と同じように考えて、同じ合理判断をするようにしてしまうんだよね。

でもそれは、患者や生徒や子供の命を、医者や先生や両親が、取り上げてしまって「命の不正所有」しているのと同じ。その命は泣いていて、感謝も覚悟もできない恨みがましい念に、無意識が染まるだけ。

もともと誰の命なのかを忘れて、命を現代の合理的な判断の中で、まるでベルトコンベアーの上を流れる製品のように合理的に扱うのが、流行ってから、もう50年ほどがたったでしょうか? それともまだ、ここ10年ほどの傾向に過ぎないのでしょうか?

そもそも命は、分からないからこそ、半分はこの世界からの借り物のようなものです。合理判断などでは割りきれない、命をちゃんと「正しく」扱うことなど、簡単に決めつけられないものだからです。

命が、ひとりひとり違うのなら、その違いにも意味が当然あるはず。
私は、ひとりひとりの命に敬意を表して、ひとりひとり違う命の満足する使い方を本人が見つけ、どう「覚悟して生きる」のか?何をすることが本人の「命の使い方」なのかを、命の不思議を見守ることで、みんなの自分の答を取り戻してもらう手伝いをしていたことに、今、この文章を書いていて、改めてそうだったんだなと、気が付かされました。(笑)
やっぱり、命は分からない。不思議です。(笑)

無理に長く、「命の不正所有」をしていると、その不自然を咎められて、結局、患者はそれで死ぬ。
分からないけどね。本人の覚悟あってのことかもしれないし、他の事情があるかもしれないんだけど。

医者であれ、カウンセラーであれ、親であれ、患者や子供に死なれたくなさすぎて、「命の不正所有」に走りすぎれば、その異和感は無視できないほど大きくなってしまう。
それらの無意識のストレスは累積し、本人が納得した生き方を覚悟する権利を取り上げられて、その結果、感謝できなくなって溜まる恨みが、命にダメージを与えないわけがない。

でも、 気がついたら、「命の不正所有」をしちゃってたりするんだよね。
死なれるのが、こわい。もしかしたら自分が死ぬよりもこわい。いくじなしだけど、そういうやつも、なんか、いいやつだったりするんだよね。

自分も、気付かなければ、そうだったし。
今は気付いちゃったから、「命の不正所有」をして、殺したくないから、死なれちゃうことも、覚悟しただけ。するしかないだけ。

そしたら、案外最近は、ガンが消えたりして意外に助かったりするのを見かけます。
どこかで誰かに、命を不正所有されてたのを、取り返したのかもしれません。

今は、命を取り返す手伝いは、してるみたいです。(笑)
面倒だな。自分でやってくれよ。と、依存防止のためのジョークを、言っときます。(笑)


<狂気の天才かもしれない方へ(笑)>につづく




スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://totoro2011.blog9.fc2.com/tb.php/51-25d1f648
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。