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その2のつづきです。


<狂気の天才を待つ時間>

つれづれとした、世間話ですが。
最近、「狂気の天才」タイプの知人が、かなり突き抜けたところまで行ったようで、
また少しでも、楽になってきて、良かったなと。

その「狂気の天才」は、科学者か、カウンセラーが似合うタイプで、実際にはバッチフラワーカウンセリングと親行(人間関係トレーニング)を学んだ、まあ、カウンセラーのセミプロです。

彼女の両親は農家で、そのお宅には水田体験に行ったこともあり、毎年、野菜と餅をくれる感じの、通常はあきらかに善良と言える、両親と兄夫婦なんですよ。
ぜんぜん落ち度を感じないような。

しかし、善良な農家に、「狂気の天才」が生まれてしまっても、受けとめきれなかったのは当たり前だった。みたいな感じだったようです。

本人からこんな感じの総括的説明を受けました。

「人が良くまじめで優しい家族に対して、狂ったように怒りや悲しみを撒き散らし、当てつけのように自分を傷つけて家族に見せたり、罪悪感や家族に感じていた嫌悪感を出してしまいたくて、自分は摂食障害してたと最近眺めています。
 やっと、今までより実質的に、家族との関係からも抜け出す時がきたと思います。
自分を愛して自立を許し、家族に親切にしたい。わたしもおとなになりたい。もうなっていいんだっていう、本当にシンプルな願いから、私は今までからの脱皮を心底願う最近です。」
                  

状況は、少しずつ動き始めたようです。

ご両親が、無関心ではなくても、本人が世間や何らかの異和感に対し、超感覚的に過敏にすら感じる「狂気の天才」だと、つまり「本人の異和感>>>>>両親の異和感」となり、両親に対して無神経だと追いつめているのと、同じ状態になっていたのかもしれません。

「狂気の天才」本人も、両親の善良さがわかるために、責められず。結果、深層心理で自分を責めてしまい、発症したのではないかと思っています。自意識では、悲しみが多かったようです。

ある意味、その方は「待つ」のだけでも大変な、本当に「狂気の天才」タイプでした。
知り会ってから8年ほどでしょうか。

最初はやさしいタイプの仲間たちに、完全に任せてあまり直接的に関わらないようにしていました。(笑)
そして、異文化交流のように、徐々に話が深く通じて来て、そしてやっと小さな変化が表面にも大きく影響を及ぼすように、なってきたようです。

しかし、この変化は、あくまで本人の解釈によるもので、他の外側からの影響というよりは、本人の「分裂していた内部意見どうしの統合」による変化だと、そう感じているんです。

本人の、自分の人生や、自分が感じてしまう異和感へを覚悟を、待つしかないわけです。本人の問題だから。

だいたい、そういう「狂気の天才」タイプが、他人の言うことや判断を、簡単に聞くわけがないんです。

そう思えば、ある意味、面白いんです。
聞くわけがない人に、私は何を一生懸命に話しているのか?そもそも一生懸命なのか?
すると気が付くわけです。一生懸命な方が相手をかすかに見下していて、むしろ楽しく不真面目に話す方が馬鹿にしてない尊重の態度だと、ある意味言えるのだと。

「狂気の天才」相手には、しょっちゅう面食らいながら、マジでうけながら、そんな風に、「待つ」しかないんです。くりかえしますが、本人の問題だから。

そういう、才能ある、マジで「狂気の天才」が
反省はせずに、ある意味、諦めるまで。(笑)
そんな風に、結果を覚悟して「待ち」ます。

実は、あまり反省させちゃダメだし。自己肯定感も自己判断への自信もなくなるから。
それに、何であれ、諦めさせようとすると、諦めない。諦めるわけない。

本当は私は、何であれ諦めない方がいいと、思っているくらいだし。
でも、そう思って接していると案外、諦めちゃうんだな。余計なことは。(笑)
つまり、本人にとって余計なものは諦めた方が、本人にとって大切なことを諦めないですむ。ということなんです。

そして、ここが大切なんですが、
『本人にとって何が大切かは、人によって違うから、なにがなんだかマジでわからん。』
って、しっかり思って接しないと、偽りになるということなんです。

「待つ」についてのところでも話してますが、合理的な判断を、どんなに正しそうでも、簡単に押し付けちゃダメなんです。合理を「押し付け」ずに、うまく「覚悟ない状態」の本人に「仕向け」ても同じです。「合理の押し付け」より、もっと悪い。「合理の仕向け」られ感が多いと、感謝ができなくなりますから。

正統にしつけとして、むしろ「押し付け」ないといけないのは、親や上司自身の「覚悟からくる判断」なんです。覚悟して生きる姿を見ないと、覚悟が分からないからです。
だから、「合理の押し付け」はダメですが、「覚悟の押し付け」はむしろ必要なんです。

でも、世の中からは、「覚悟の押し付け」は悪いものとされて減り、覚悟ない合理の判断ばかりが優しく「仕向け」られていき、結果、感謝や因果応報の分からない、覚悟ないずるく自信のない人が、だんだん増えていっているようです。

「一見」優しく「仕向け」て本人の覚悟がないうちに、色々と表面的には合理的に「見える」ことを決めさせても、それは「偽りの尊重」だから「偽りの結果」になるのは、これも当たり前です。

それをしていると、相談者と共依存の状態になりやすく、互いに強迫観念的に教義のように合理と善意の判断をしなければならなくなり、相談者を言わば正解専門のロボットのような状態にしてしまい、正解しか言えないような「暗示」にかかったタイプにしちゃうことになります。

だから、そうならないためには、「待つ」しかないんです。特に「狂気の天才」は。(笑)
互いに依存にならぬよう、念のため、覚悟をやや、「押し付け」て見せながら。(笑)

うわあ、分かってしまうと、やや、いやらしいかもしれないので、これも、もう一度。

『本人にとって何が大切かは、人によって違うから、なにがなんだかマジでわからん。』

とか、「マジで面白がって、うけながら。」


<命の不正所有をしない覚悟>につづく
その1からのつづきです。

<「待つ」という状態>

ここからが本題です。ひときわ長くなってしまったので、一度休んでから続きをどうぞ。(笑)

「待つ」という行動というか、その状態についての話をします。色々な方々に関わって、教えて頂いた体験から、徐々に分かってきた認識を、お話します。

この「待つ」という言葉も、「努力」とか、「プライド」とかいう言葉と同じように、だんだん本来の意味とは反対の意味になってきてしまった言葉だと思うんですよ。

詳しく言いますと、「努力」は、昔は自分の考えや納得した方法で「追究して」いく事だったんですが、今風では、自分を「押し殺して」でも何らかのメソッドやマニュアルのようなやり方を実行する事になっています。例えば受験勉強のようなイメージです。

「プライド」が高いっていうのも、昔は、誰に何と思われても自分の意見や行動を「曲げない」自信家の事だったのですが、今風では、他人の目を「気にして」「自分のことを良く思われたくて」「そのために言動や行動を気にして」「依存的に周りに誉められないとダメな人」の事です。めんどくさい人の事を表す文脈でばかり使うようになりました。

そして、「待つ」なんですが、今風の解釈では、「何もしないで」または「足りないが、これ以上何もできないで」、それでも仕方ないとして、心はあきらめてはいないが、「状況をそのまま見送るしかない」という事になっています。そういう状態を認める、という行動であるという解釈もあります。

しかし、昔の解釈は、やはり似て非なるものなんです。でも、「努力」や「プライド」のように、違いが分かりやすくはないんです。

なぜかというと、現代では、何かの方法とか手段と言うと、物質主義的なものばかりを連想しやすく、あまり具体的ではない「気分や善意を満たす」などの精神主義的なものや、意志や覚悟の決定に関わる「価値観」的なものを、ただの補助的なものとしか思わないし、そうとしか習わないからです。

手段を3つに分けて考えましょう。
物質主義的な損得としての、物や金銭や時間や総合的合理性をもたらす
「①合理手段」。
精神主義的な善意やいわゆる徳目をみたし社交的で他者からも評価される
「②理想手段」。
意志や覚悟のような、本人の納得をもたらし最終的自己肯定感をもたらす
「③覚悟手段」。

現代において、普通に「手段」というと「①合理手段」のことです。作戦的でメリットをもたらすので、これが表向きは目標になるのですが、実はこれだけでは決して心は、満たされはしないんです。
「②理想手段」と「③覚悟手段」を考えない状態で、主に物質的なメリットだけを満たしても、精神的善意の満足や、本人の納得は得られないからです。

つまりこうです。いくら、物や金銭や時間が多く得られても、他人や知人に苦しみを与え過ぎたり、本人の納得のいく形にならない結論になるならば、無理矢理、親が押し付けた価値観で、鬱病や神経症になるような結論が待っているだけだと言うことです。

そういう風に言うと、あまりにも当たり前なのに、そう知っているはずなのに、なぜかそういう親に育てられた人たちまで、手段と言うと「①合理手段」に、とらわれてしまっているのが現代の状況です。

まだ、「②理想手段」は語られるのですが、なぜか「①合理手段」に反対する立場の概念としてだけ語られます。スピリチュアルや宗教や哲学的な理想論だとして、だいたいは無視していいもの、現実的ではない無視するしかないもの、として扱われます。
その結果、理想を語るからか、原発反対や反グローバリズムもそう扱われています。「①合理手段」に反する非現実的なものであるというレッテルであり、思い込みです。反対運動をしている方も、そう思い込んでいる事もあります。現実を倒さないとダメだと思い込み、対立して一切の妥協を許さなくなります。

そして、「③覚悟手段」が肝心なのですが、これがなんなのかもう、どうでもいい感じなんですよ、現代では。
ほとんどが、こうなってしまっています。
つまり、「①合理手段」で物や金銭や時間が得であればいいし、「②理想手段」も少しは考えて、良い人でいられる程度に他人への迷惑を減らせばよくて、「③覚悟手段」なんて良くわかんないよね。やるかやらないかしか、覚悟なんてないじゃん。みたいな感じです。

あの~、なんで、自分の意見と合いもしない合理性を、自分の人生の目標にしないといけないのでしょうか?
それを押し付けられ、それどころか同意か同調をしないと、恐ろしいほどのバカか、非常識な、とにかく迷惑なやつだ的な視線で見られたり、味方にまであわれみの視線をなぜ受けなければならないのでしょうか?
かなり前から言いたかったのですが、「それこそバカか?わけがわからん。」

あ、言い過ぎましたか。でも、それくらいの違いなんです。この解離にはそれくらいの距離があります。
「③覚悟手段」が自分にはなくて、合理性だけで自動決定してしまっている人は、現代ではすごく多いからだと言えます。

もし、自分にできることが限られていても、選択肢が余りなくても、「自分が何をどうしたいのかを考え、何にどう思われたいのかを感じ、どういう形の決着を目指して生きたいのか自己を認識し、実際にそうなろうとなるまいと実行に移したのなら、ことの総合結果を全て受け入れようとする。まだ、そう覚悟できないのなら、待つ。」そのように、覚悟してみようとして、何度も何度も考え、悩むことはできます。

もちろん、安易には動けないでしょう。まずは、他人の示す規範などに、従いながら生きてみる。それでいいと、思います。「今は、自分は動かない。」という覚悟をしているということです。
「動けない」ではない事が重要です。「動かない」じゃないと「③覚悟手段」には、なりません。それでは、自分の判断ではなくなるからです。背景や環境のせいにしてしまうと、意志がなくなり、恨みがましくなるだけです。

昔の人の判断や行動には、「①合理手段」「②理想手段」「③覚悟手段」が、別に特別な難しさも無く、3つとも同時にありました。
「①合理手段」を押し付ける無礼をする人が少なかったのと、「②理想手段」が現実と対立する運命だという思い込みばかりではなかったこと、「③覚悟手段」を他人任せで自動決定していた人は、よほどのお姫様かお殿様のような覚悟ない、やらされ感ばかりが強い儀式的な階層の人だけだったこと。などが、強いて言えば理由ですが、自分の立場が重要なのは、自分や家族や仲間だけであり、判断を他人任せにすることは、ありえませんでした。


さて、「待つ」の話に、ここで戻ります。

昔の「待つ」は、「①自分が何をどうしたいのかを考え、②何にどう思われたいのかを感じ、③どういう形の決着を目指して生きたいのか自己を認識し、実際にそうなろうとなるまいと実行に移したのなら、ことの総合結果を全て受け入れようとする。まだ、そう覚悟できないのなら、待つ。」こうでした。①②③の手段は全て意識せざるを得ませんでした。

そして、今風の「待つ」の解釈は、「何もしないでいる」または「手段が足りないが、これ以上何もできないでいる」、それでも仕方ないとして、心はあきらめてはいないが、「状況をそのまま見送るしかない」という事になります。

昔は「動けない」ではなく「動かない」という覚悟なのですが、今風では「動けない」ので「何もしない」「何もできない」で「状況を見送る」という判断停止=他人や状況まかせでしかないので、意志がないため恨みがましくなってしまうのです。どうしようもない感が深層心理に強くある状態です。

かなり長くなりましたが、まとめていきます。

今、流行っている誰かが作り出した判断が「①合理手段」でメリットを確保し、「②理想手段」も他人に責められない程度にはあるような時に、そういう誰かの作った判断にばかり決めてもらって、自分の意見を持たないでいると、特に自分にしか分からない、自分だけの立場からの覚悟である「③覚悟手段」がないと、以下の2つの問題と1つの迷惑が発生します。

まず、状況による「やらされ感」ばかりを強く感じてしまうので、感謝や達成感や幸福感が無くなります。自己判断なくして自己肯定はないからです。当たり前です。

次に、「待って」いるようでも、実は状況のせいにしているので、深層心理では恨んでしまい、いわゆる「手放す」ことができなくなり、何かに依存してしまいやすくなります。覚悟による自己責任がないからで、これも当たり前です。

そして最後は、「自己判断をすることで自己肯定感があり、覚悟もあって自己責任を果そうとする、すごく昔ならまともである人」を見かけると、その人がすごく「非常識な自己中心的」な「迷惑なトラブルメーカー」に見えてしまうので、皆で徒党を組んで排除してしまうということをしてしまいやすくなります。

よくある多数派の暴力ですが、これこそ「自己中心的」で「迷惑」だと思うのですが、「皆と違って判断を自分でしている人」が「非常識」な「トラブルメーカー」にしか見えないのです。皆や自分にとって良いといえる意見ですら、そう見えてしまいます。

これは、よく頭の良い官僚タイプに見られる現象です。記憶力があって理解力がない状態に、覚悟がないだけでなってしまうからです。喜悲劇的です。自分たちが問題を解決する可能性も、自分たちで閉ざしてしまっています。覚悟がないと自分の間違いに気付けないので、実はこれも当たり前なんです。

以上が、覚悟がないと、「待った」ことにすらならないという話でした。


<狂気の天才を待つ時間>につづく



こんにちは、栗木ンディです。
森のトトロからお手紙をもらいましたので、何回かに分けてお届けします。
だって…長いんだもん!

一応、ご存知ない方のために簡単にお話しておきますが、
森のトトロは揉み師です。
たくさんのお客様(患者さん)や揉みの弟子たちと関わる中で、
トトロが感じていることを時々こうしてお伝えしています。

もともと、トトロは伝えたいことが膨大にあるので、ものすごく早口で、
左脳インプットタイプの栗木は、いつも「ポカーン」として理解できないんですが、
最近、長いけどわかりやすく文章にしてくれるようになってきたので、ちょっとずつ理解が深まってきている今日このごろです。(笑)
ではトトロのお話、どうぞ!




<「狂気の天才」な人について>

まず、長い前フリです。すいません。(笑)

「こわい」と感じること、について以前に書きましたが、そういう「こわい」ことが多い人って当然、拒否や回避に見える態度が多くなるわけです。

そして、周りはその理由が分からないか、納得できないような理由であるように感じます。普通なら気にしないような事を、そういう(こわいことが多い)人は気にして色々なものを、頑なに忌避してしまうので。

周りは、めんどくさいし、本人もめんどくさいと感じてはいるんですよ。
でも、「こわいと感じるとき」という文章の中でも一度話したように、そういう人たちは「とにかく安易な事を一切もう、したくない」から触りたくないだけなので、あるとき色々な意味で修業が済んだりして、「安易じゃないやり方を見つけた」りすると、突然、才能が開花して、苦手だったはずの分野に対してでも「天職だね」「天才だ」としか言いようがないような力を発揮することがあるんですよ。

私は、そういう状態になっている人や、そういう状態に向かう途中にある人の中に、まだ充分な環境などが足りなかったりして、才能を発揮しきっていなくても、「普通の年齢どおりに生きただけの経験値を超えた判断やセンスやこだわり」を見かけたとき、「すごい才能だな」と感じることが多いんです。

もちろん、本人も周りも、生きづらいストレスがかかっている事がままあり、楽な状態ではない事が多いです。そのこだわりが苦しみにしか感じない事のほうが多いはずです。

私は、そういう「安易なことを拒絶してたどり着いた才能」に敬意を表しているうちに、そういう方々を心の中で「狂気の天才」だと思うようになりました。そう感じるようになってしまった結果、彼らの生き方に共感してしまってもいます。

天才って、本人も周りも生きづらいんです。
「世間一般の、多数派の普通」との摩擦が半端ないからです。
彼らが自分を責めだすと、すぐに鬱状態や、鬱病が待っています。自殺も多いです。
多数派にとっては、その方が乱されなくて都合がいいので、排除されてしまい易いんです。

世間の、普通じゃない者への圧力は、すごいです。
少し前に「豪華客船・普通丸」という考察を書いたときにも話していますが、「世間一般の多数派の普通」の人たちは、多数派であるだけで、ずいぶん自信があるかのような態度を一見とっていますが、実は自分の行動に確信がないことの現れでもあるので、「狂気の天才」の状態の人から「世間一般の多数派」じゃない意見をもらってしまうと、自分のこれまでの「善悪」や「損得」や「実績」などの根拠になっている常識を、否定され攻撃されたように感じて、表面には出さなかったとしても、実はすごく憤っていたりします。

「世間一般の多数派の普通」が、皆にとって快適な正解を出しやすいのか、それとも皆で責任のなすりあいをしながら間違いを認めずに、むしろ間違いを拡大していきやすいのか、立場によって意見が分かれるところだと思いますが、そういう大きな問題ではなく、この場合のような小さな「大人げないのはどちらか」という話にしぼれば、多数派の方々は、多数なんだから、少数派の意見などは参考にしつつ、少数派は大変そうだな、と苦笑いでもしていればいいじゃないですか。

多数派なのに、少数を無理に攻撃や排除をしてまで、追放しなくてもいいと思います。
何とかして、目の前から消えて欲しいと思う方もいらっしゃいますが、たぶん考察するに、自分の行動に実はかなりの異和感を感じていて、無意識では罪悪感を感じやすくなっていて、だから「狂気の天才」タイプが近くにいるだけで苦しくなってしまって、それが重なって、何らかのトラウマになり、拒否状態になってしまっているのではないかと思います。こういう安易な拒否は、魂の課題として、残りやすいらしいのですが。(笑)

すると、生まれ変わりがあるなら、来世あたりでは、「安易に狂気の天才を拒否してはいけない」というこだわりを持って生まれてきて、こんどはワトソンさんのように、天才ホームズを支える役になったりするのでしょうか?
色々妄想すると、面白いです。

<「待つ」という状態>へつづく




生きることにいろんなつらさを感じている人へ、
森のトトロが叔父から教えてもらった『豪華客船・普通丸』という例え話をしましょう。

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「普通」とは本来の意味は「普遍に通じる」という意味で、単なる多数派という意味ではありません。多数派という意味なら「世間一般」の「普通」とでも言うしかありません。

本来の「普通」は、もう普遍すぎて当たり前で意識しなくなった感じのもので、あまり話題にはなりません。(海外から見た日本やどこかの国の「文化」=「普通」について、のような形で話題にすることがあるくらいでしょうか。)

「世間一般」の「普通」は、現在の多数派が「普遍になるかも」と無意識に感じていて、つい「無言の押し付けになってしまって」いるものです。「なって」しまっているだけで、意識はありません。それに気付くくらいなら、実は普遍に通じていないことに気付けますから。

これは、暗示にかかっているのと同じような状態であり、その人の「世間一般」の「普通」を否定しようとすると、怒り出したり、内心で憤り始めます。

「暗示」というものは、かかる時は快楽を感じるのに、解けるときには反発や恐怖を感じてしまうものです。イメージとは逆ですが、誉めたりして「煽る(あおる)」方法が基本だから、そういう風になり易いんです。

そして、「世間一般」の「普通」というものは、「努力」や「成果」や「善悪」などという、重要なものの土台や前提条件になってしまっている「常識」という「暗示」だとも言えるので、それを否定されると、それまでの人生の努力や成果や善悪判断を否定された気分になってしまいます。

だから、「世間一般」に反した事を主張するものを、無意識で抑え込んだり否定してしまう。そして自覚もなく「そうなって」しまうだけなので、それをしている事を認めません。

「世間一般」の「普通」とは、そういう「変人を無意識で排除」してしまう仕組みです。

世界を大きな河に例えて、「普通」を「豪華客船・普通丸」という船に例えると、「世間一般の普通」こそが、大河を泳ぐ人々を、無慈悲にさえぎり、溺れさせ、傷つけ、上からあざけり、殺してきたんだ、という風に考察できるという事です。

自分の力で泳ぐ人々にも、矜持(きょうじ。誇りやプライドの意)や流儀があり、目的を持って泳いでいます。

むしろ、目的などはっきりしていないのは、「豪華客船・普通丸」の残酷さにも気付けない乗客たちであり、自分達は恐ろしい(と思い込んでいる)河で溺れないように、豪華客船から落とされないように、ぶら下がってでも、船にしがみつこうと、船の中で、地位や経済や名誉の争いをしているのです。

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トトロの叔父は、
「その豪華客船を一回おりてみないと、人生なんて、ちゃんと始まってないようなもんなんだけどな。」
「おりて、客船にまた戻ろうとするより、一回岸にあがって、見てみろと、言いたいね。」
とも言っていました。

でも「岸」とは、あの世との狭間の例えとしても使われる言葉だから、生きるか死ぬかをくぐって、生き延びてサバイバーと呼ばれるような苦労や艱難辛苦だったりするんですけどね。

それに、一度降りると、高級な常識的社交界ともいえる豪華客船には、なかなか戻りづらいから、「ちょっと変な客船おかしい丸」とか、変わった人達の集まりに参加したり所属してみたりなど、人生の船を乗りなおしたりしても、いいんじゃないかなとも思います。

「豪華客船・普通丸」に乗り続けるのも、そこから降りることも、どちらもなかなか大変な試練で、やっぱり客船に戻ったり、自分たち用の船を造ろうとしたり、一人で大河を泳ぐ方法を研究したり、「大河で死ぬまで泳ぐ会」を発足したりなど、みんな結構むちゃな試練を発想したりして、この世を泳いでいるんだというように、感じています。

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以前の僕は、「豪華客船・普通丸」にあまり関わらない方がいいと思っていましたが、最近は、それぞれの目的次第でいろいろに変化していくものだと気付き、結果、自分にとって最善を選べばいいのだ、と思うようになってきました。
この例え話が誰かの役に立てば幸いです。

ものすごく久しぶりの更新です、すみません。
森のトトロが最近仲間から受けた質問に対して答えたお話をご紹介します。

まず、質問は、
「こわい」という感情について、なんだかよくわからなくなってしまったので教えて欲しい。
ということなのですが…
この質問以前に、いろいろな会話が行われていて、いろいろ掘り下げていった結果、
この質問に到達した模様です。

ここから、質問者さんへのトトロのお返事をご紹介。

_・_・_・_・_・_
こわいと感じた場合、

まず、安易にその物事に関わることができないくらい、重要視しているものが、その中にあるということ。
安易にその何かをすれば、また過去世と同じような過ちを犯してしまう。と感じているということ。
そして潜在的に言えることは、そのこわい何かをしたり関わる時に、どうすれば安易ではないのかを探し続けているということ。

つまり、こわいと感じることの裏には、
以前の世界でした安易な過ちへの後悔と、
安易でない関わり方ややり方を目指す気持ちと、
安易を後悔して分かるまで触りたくないほど大切にしたい気持ち、
その3つが隠されています。

「安易」だと何を感じていたのかを見つけ、
安易じゃない方法をとうとう見つけると、
関わりたくなかったはずの、こわい状況のなかの仕事が得意分野になったり、天職になることも、ままあります。

「こわい」の裏には、何かを「安易」じゃだめだと感じる自分がいる。でも言葉には出来ていない。だから、固まってしまったり、拒否したり、逃げたようになってしまいやすい。

でも、安易に関わるのがイヤで、距離をとってしまうことが、そんなにダメだろうか?
最前線で敵前逃亡状態になるのはまずいから、だから距離をとる必要があるわけだ。

それが、普通の人たちより、何が安易なのか何が外道なのかわからないまま、何となく世間に関わっている人たちよりも、ダメなことだろうか?

いずれ、彼らのような、世間一般が普通だと思っている人たちも、
いつかは痛みを知って「安易の罪」や問題を知り、
簡単な解決策は無くても、せめて安易なことを繰り返すばかりで、
しかも、わかって認めてそれらをやるならば責任と学習があるからよいが、
自己認識するのも避けて、正当化しているばかりなら、それは人の道にはずれているのだと気が付く日がくると、そう思います。

こわいは、安易に気付く道、安易に気付いた過去を現在に取り戻す道のりだと、思います。
気付いたあとは、こわいは、安易を知る才能になっています。
安易を知ることを、才能と言います。
_・_・_・_・_・_

にゃにゃにゃー!
この話もまた深いなぁ。
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