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その4からのつづきです。


<狂気の天才かもしれない方へ(笑)>

とにかく、自分の価値観をコピーしたり、
そういう、「正解モデルみたいな雛型」を作っちゃダメなんだよね。(笑)
「表面の正解モデル」なんかを作るから、みんなおかしくなって、心の理想も覚悟も壊れてしまうのに。

必要なのは、表面や結果とかではなく、信じ込まないで「試しにやるやり方」とか、色々やってると発生してくる「異和感をなくす方法」とか、つまり「正解モデルを必要としなくなる方法」なんだよね。

本当は、それが技というものだった。磨いていく方法のことだった。インスタントな正解マニュアルなんかじゃなかった。技は、磨くことで変わっていくものだったから。
才能とか天分とかいうものは、古くは「異和感を見抜くセンス」のことだった。異和感に気付く、こだわりの「狂気の天才」たちは、努力の結果が、はるかに大きかった。

「異和感に気付く者が、異和感を減らす技を磨いて、変に思われても覚悟して行動した」時に、やっと異和感が減りはじめる。

だから、異和感に気付く「狂気の天才」を、ネガティブで「後ろ向き」だと勘違いしている者も、まだ世間には多いが、「そんな考え方こそ後ろ向きだ。」と言わなければならない。

世間には、そんな理由などで、「狂気の天才」を弾圧している余裕などはないはず。
異和感のかなり多い時代なのだから。

「世間一般の普通」の彼らが、無神経なだけかもしれない。むしろ今は、無神経な者が多すぎて、問題や異和感が増え続けているように見える。

世間は「狂気の天才」たちの手を、もっと借りましょう。(笑)
みんな実は、「異和感をなくす力」を秘めた、彼らを「待って」いるんだから。


今回の長い話は、これで、終わりです。
何らかの、ヒントになれば、幸いです。
超長文を読破して下さり、ありがとうございました。(笑)


狂気の天才を待つ時間その1に戻る?



その3からのつづきです。

<命の不正所有をしない覚悟>

自分の患者や生徒や子供に、死なれるのって、とにかくいやですよね。
だから、死なれる覚悟からは、絶対に逃げたいし、逃げて逃げて、合理的判断に逃げることが多い。
でも、命って、命こそ、合理性だけじゃ計算できない、判断できないものだと思うんですよ。

死ぬかもと思ってたら、案外、死なないで生きるかもしれない。
あるいは、死ぬしかない事情があるのかもしれない。
何を覚悟して、何に命をかけているのか、ひとりひとり違っていて、分からないから。
祈るような気持ちで、命を大切に、最善を尽くしながら触れる。でも、「正解は、分からない。」

そう思えないと、患者や生徒や子供の命を、自分の価値観の合理性で洗脳して、その「暗示」で、自分と同じように考えて、同じ合理判断をするようにしてしまうんだよね。

でもそれは、患者や生徒や子供の命を、医者や先生や両親が、取り上げてしまって「命の不正所有」しているのと同じ。その命は泣いていて、感謝も覚悟もできない恨みがましい念に、無意識が染まるだけ。

もともと誰の命なのかを忘れて、命を現代の合理的な判断の中で、まるでベルトコンベアーの上を流れる製品のように合理的に扱うのが、流行ってから、もう50年ほどがたったでしょうか? それともまだ、ここ10年ほどの傾向に過ぎないのでしょうか?

そもそも命は、分からないからこそ、半分はこの世界からの借り物のようなものです。合理判断などでは割りきれない、命をちゃんと「正しく」扱うことなど、簡単に決めつけられないものだからです。

命が、ひとりひとり違うのなら、その違いにも意味が当然あるはず。
私は、ひとりひとりの命に敬意を表して、ひとりひとり違う命の満足する使い方を本人が見つけ、どう「覚悟して生きる」のか?何をすることが本人の「命の使い方」なのかを、命の不思議を見守ることで、みんなの自分の答を取り戻してもらう手伝いをしていたことに、今、この文章を書いていて、改めてそうだったんだなと、気が付かされました。(笑)
やっぱり、命は分からない。不思議です。(笑)

無理に長く、「命の不正所有」をしていると、その不自然を咎められて、結局、患者はそれで死ぬ。
分からないけどね。本人の覚悟あってのことかもしれないし、他の事情があるかもしれないんだけど。

医者であれ、カウンセラーであれ、親であれ、患者や子供に死なれたくなさすぎて、「命の不正所有」に走りすぎれば、その異和感は無視できないほど大きくなってしまう。
それらの無意識のストレスは累積し、本人が納得した生き方を覚悟する権利を取り上げられて、その結果、感謝できなくなって溜まる恨みが、命にダメージを与えないわけがない。

でも、 気がついたら、「命の不正所有」をしちゃってたりするんだよね。
死なれるのが、こわい。もしかしたら自分が死ぬよりもこわい。いくじなしだけど、そういうやつも、なんか、いいやつだったりするんだよね。

自分も、気付かなければ、そうだったし。
今は気付いちゃったから、「命の不正所有」をして、殺したくないから、死なれちゃうことも、覚悟しただけ。するしかないだけ。

そしたら、案外最近は、ガンが消えたりして意外に助かったりするのを見かけます。
どこかで誰かに、命を不正所有されてたのを、取り返したのかもしれません。

今は、命を取り返す手伝いは、してるみたいです。(笑)
面倒だな。自分でやってくれよ。と、依存防止のためのジョークを、言っときます。(笑)


<狂気の天才かもしれない方へ(笑)>につづく




その2のつづきです。


<狂気の天才を待つ時間>

つれづれとした、世間話ですが。
最近、「狂気の天才」タイプの知人が、かなり突き抜けたところまで行ったようで、
また少しでも、楽になってきて、良かったなと。

その「狂気の天才」は、科学者か、カウンセラーが似合うタイプで、実際にはバッチフラワーカウンセリングと親行(人間関係トレーニング)を学んだ、まあ、カウンセラーのセミプロです。

彼女の両親は農家で、そのお宅には水田体験に行ったこともあり、毎年、野菜と餅をくれる感じの、通常はあきらかに善良と言える、両親と兄夫婦なんですよ。
ぜんぜん落ち度を感じないような。

しかし、善良な農家に、「狂気の天才」が生まれてしまっても、受けとめきれなかったのは当たり前だった。みたいな感じだったようです。

本人からこんな感じの総括的説明を受けました。

「人が良くまじめで優しい家族に対して、狂ったように怒りや悲しみを撒き散らし、当てつけのように自分を傷つけて家族に見せたり、罪悪感や家族に感じていた嫌悪感を出してしまいたくて、自分は摂食障害してたと最近眺めています。
 やっと、今までより実質的に、家族との関係からも抜け出す時がきたと思います。
自分を愛して自立を許し、家族に親切にしたい。わたしもおとなになりたい。もうなっていいんだっていう、本当にシンプルな願いから、私は今までからの脱皮を心底願う最近です。」
                  

状況は、少しずつ動き始めたようです。

ご両親が、無関心ではなくても、本人が世間や何らかの異和感に対し、超感覚的に過敏にすら感じる「狂気の天才」だと、つまり「本人の異和感>>>>>両親の異和感」となり、両親に対して無神経だと追いつめているのと、同じ状態になっていたのかもしれません。

「狂気の天才」本人も、両親の善良さがわかるために、責められず。結果、深層心理で自分を責めてしまい、発症したのではないかと思っています。自意識では、悲しみが多かったようです。

ある意味、その方は「待つ」のだけでも大変な、本当に「狂気の天才」タイプでした。
知り会ってから8年ほどでしょうか。

最初はやさしいタイプの仲間たちに、完全に任せてあまり直接的に関わらないようにしていました。(笑)
そして、異文化交流のように、徐々に話が深く通じて来て、そしてやっと小さな変化が表面にも大きく影響を及ぼすように、なってきたようです。

しかし、この変化は、あくまで本人の解釈によるもので、他の外側からの影響というよりは、本人の「分裂していた内部意見どうしの統合」による変化だと、そう感じているんです。

本人の、自分の人生や、自分が感じてしまう異和感へを覚悟を、待つしかないわけです。本人の問題だから。

だいたい、そういう「狂気の天才」タイプが、他人の言うことや判断を、簡単に聞くわけがないんです。

そう思えば、ある意味、面白いんです。
聞くわけがない人に、私は何を一生懸命に話しているのか?そもそも一生懸命なのか?
すると気が付くわけです。一生懸命な方が相手をかすかに見下していて、むしろ楽しく不真面目に話す方が馬鹿にしてない尊重の態度だと、ある意味言えるのだと。

「狂気の天才」相手には、しょっちゅう面食らいながら、マジでうけながら、そんな風に、「待つ」しかないんです。くりかえしますが、本人の問題だから。

そういう、才能ある、マジで「狂気の天才」が
反省はせずに、ある意味、諦めるまで。(笑)
そんな風に、結果を覚悟して「待ち」ます。

実は、あまり反省させちゃダメだし。自己肯定感も自己判断への自信もなくなるから。
それに、何であれ、諦めさせようとすると、諦めない。諦めるわけない。

本当は私は、何であれ諦めない方がいいと、思っているくらいだし。
でも、そう思って接していると案外、諦めちゃうんだな。余計なことは。(笑)
つまり、本人にとって余計なものは諦めた方が、本人にとって大切なことを諦めないですむ。ということなんです。

そして、ここが大切なんですが、
『本人にとって何が大切かは、人によって違うから、なにがなんだかマジでわからん。』
って、しっかり思って接しないと、偽りになるということなんです。

「待つ」についてのところでも話してますが、合理的な判断を、どんなに正しそうでも、簡単に押し付けちゃダメなんです。合理を「押し付け」ずに、うまく「覚悟ない状態」の本人に「仕向け」ても同じです。「合理の押し付け」より、もっと悪い。「合理の仕向け」られ感が多いと、感謝ができなくなりますから。

正統にしつけとして、むしろ「押し付け」ないといけないのは、親や上司自身の「覚悟からくる判断」なんです。覚悟して生きる姿を見ないと、覚悟が分からないからです。
だから、「合理の押し付け」はダメですが、「覚悟の押し付け」はむしろ必要なんです。

でも、世の中からは、「覚悟の押し付け」は悪いものとされて減り、覚悟ない合理の判断ばかりが優しく「仕向け」られていき、結果、感謝や因果応報の分からない、覚悟ないずるく自信のない人が、だんだん増えていっているようです。

「一見」優しく「仕向け」て本人の覚悟がないうちに、色々と表面的には合理的に「見える」ことを決めさせても、それは「偽りの尊重」だから「偽りの結果」になるのは、これも当たり前です。

それをしていると、相談者と共依存の状態になりやすく、互いに強迫観念的に教義のように合理と善意の判断をしなければならなくなり、相談者を言わば正解専門のロボットのような状態にしてしまい、正解しか言えないような「暗示」にかかったタイプにしちゃうことになります。

だから、そうならないためには、「待つ」しかないんです。特に「狂気の天才」は。(笑)
互いに依存にならぬよう、念のため、覚悟をやや、「押し付け」て見せながら。(笑)

うわあ、分かってしまうと、やや、いやらしいかもしれないので、これも、もう一度。

『本人にとって何が大切かは、人によって違うから、なにがなんだかマジでわからん。』

とか、「マジで面白がって、うけながら。」


<命の不正所有をしない覚悟>につづく
その1からのつづきです。

<「待つ」という状態>

ここからが本題です。ひときわ長くなってしまったので、一度休んでから続きをどうぞ。(笑)

「待つ」という行動というか、その状態についての話をします。色々な方々に関わって、教えて頂いた体験から、徐々に分かってきた認識を、お話します。

この「待つ」という言葉も、「努力」とか、「プライド」とかいう言葉と同じように、だんだん本来の意味とは反対の意味になってきてしまった言葉だと思うんですよ。

詳しく言いますと、「努力」は、昔は自分の考えや納得した方法で「追究して」いく事だったんですが、今風では、自分を「押し殺して」でも何らかのメソッドやマニュアルのようなやり方を実行する事になっています。例えば受験勉強のようなイメージです。

「プライド」が高いっていうのも、昔は、誰に何と思われても自分の意見や行動を「曲げない」自信家の事だったのですが、今風では、他人の目を「気にして」「自分のことを良く思われたくて」「そのために言動や行動を気にして」「依存的に周りに誉められないとダメな人」の事です。めんどくさい人の事を表す文脈でばかり使うようになりました。

そして、「待つ」なんですが、今風の解釈では、「何もしないで」または「足りないが、これ以上何もできないで」、それでも仕方ないとして、心はあきらめてはいないが、「状況をそのまま見送るしかない」という事になっています。そういう状態を認める、という行動であるという解釈もあります。

しかし、昔の解釈は、やはり似て非なるものなんです。でも、「努力」や「プライド」のように、違いが分かりやすくはないんです。

なぜかというと、現代では、何かの方法とか手段と言うと、物質主義的なものばかりを連想しやすく、あまり具体的ではない「気分や善意を満たす」などの精神主義的なものや、意志や覚悟の決定に関わる「価値観」的なものを、ただの補助的なものとしか思わないし、そうとしか習わないからです。

手段を3つに分けて考えましょう。
物質主義的な損得としての、物や金銭や時間や総合的合理性をもたらす
「①合理手段」。
精神主義的な善意やいわゆる徳目をみたし社交的で他者からも評価される
「②理想手段」。
意志や覚悟のような、本人の納得をもたらし最終的自己肯定感をもたらす
「③覚悟手段」。

現代において、普通に「手段」というと「①合理手段」のことです。作戦的でメリットをもたらすので、これが表向きは目標になるのですが、実はこれだけでは決して心は、満たされはしないんです。
「②理想手段」と「③覚悟手段」を考えない状態で、主に物質的なメリットだけを満たしても、精神的善意の満足や、本人の納得は得られないからです。

つまりこうです。いくら、物や金銭や時間が多く得られても、他人や知人に苦しみを与え過ぎたり、本人の納得のいく形にならない結論になるならば、無理矢理、親が押し付けた価値観で、鬱病や神経症になるような結論が待っているだけだと言うことです。

そういう風に言うと、あまりにも当たり前なのに、そう知っているはずなのに、なぜかそういう親に育てられた人たちまで、手段と言うと「①合理手段」に、とらわれてしまっているのが現代の状況です。

まだ、「②理想手段」は語られるのですが、なぜか「①合理手段」に反対する立場の概念としてだけ語られます。スピリチュアルや宗教や哲学的な理想論だとして、だいたいは無視していいもの、現実的ではない無視するしかないもの、として扱われます。
その結果、理想を語るからか、原発反対や反グローバリズムもそう扱われています。「①合理手段」に反する非現実的なものであるというレッテルであり、思い込みです。反対運動をしている方も、そう思い込んでいる事もあります。現実を倒さないとダメだと思い込み、対立して一切の妥協を許さなくなります。

そして、「③覚悟手段」が肝心なのですが、これがなんなのかもう、どうでもいい感じなんですよ、現代では。
ほとんどが、こうなってしまっています。
つまり、「①合理手段」で物や金銭や時間が得であればいいし、「②理想手段」も少しは考えて、良い人でいられる程度に他人への迷惑を減らせばよくて、「③覚悟手段」なんて良くわかんないよね。やるかやらないかしか、覚悟なんてないじゃん。みたいな感じです。

あの~、なんで、自分の意見と合いもしない合理性を、自分の人生の目標にしないといけないのでしょうか?
それを押し付けられ、それどころか同意か同調をしないと、恐ろしいほどのバカか、非常識な、とにかく迷惑なやつだ的な視線で見られたり、味方にまであわれみの視線をなぜ受けなければならないのでしょうか?
かなり前から言いたかったのですが、「それこそバカか?わけがわからん。」

あ、言い過ぎましたか。でも、それくらいの違いなんです。この解離にはそれくらいの距離があります。
「③覚悟手段」が自分にはなくて、合理性だけで自動決定してしまっている人は、現代ではすごく多いからだと言えます。

もし、自分にできることが限られていても、選択肢が余りなくても、「自分が何をどうしたいのかを考え、何にどう思われたいのかを感じ、どういう形の決着を目指して生きたいのか自己を認識し、実際にそうなろうとなるまいと実行に移したのなら、ことの総合結果を全て受け入れようとする。まだ、そう覚悟できないのなら、待つ。」そのように、覚悟してみようとして、何度も何度も考え、悩むことはできます。

もちろん、安易には動けないでしょう。まずは、他人の示す規範などに、従いながら生きてみる。それでいいと、思います。「今は、自分は動かない。」という覚悟をしているということです。
「動けない」ではない事が重要です。「動かない」じゃないと「③覚悟手段」には、なりません。それでは、自分の判断ではなくなるからです。背景や環境のせいにしてしまうと、意志がなくなり、恨みがましくなるだけです。

昔の人の判断や行動には、「①合理手段」「②理想手段」「③覚悟手段」が、別に特別な難しさも無く、3つとも同時にありました。
「①合理手段」を押し付ける無礼をする人が少なかったのと、「②理想手段」が現実と対立する運命だという思い込みばかりではなかったこと、「③覚悟手段」を他人任せで自動決定していた人は、よほどのお姫様かお殿様のような覚悟ない、やらされ感ばかりが強い儀式的な階層の人だけだったこと。などが、強いて言えば理由ですが、自分の立場が重要なのは、自分や家族や仲間だけであり、判断を他人任せにすることは、ありえませんでした。


さて、「待つ」の話に、ここで戻ります。

昔の「待つ」は、「①自分が何をどうしたいのかを考え、②何にどう思われたいのかを感じ、③どういう形の決着を目指して生きたいのか自己を認識し、実際にそうなろうとなるまいと実行に移したのなら、ことの総合結果を全て受け入れようとする。まだ、そう覚悟できないのなら、待つ。」こうでした。①②③の手段は全て意識せざるを得ませんでした。

そして、今風の「待つ」の解釈は、「何もしないでいる」または「手段が足りないが、これ以上何もできないでいる」、それでも仕方ないとして、心はあきらめてはいないが、「状況をそのまま見送るしかない」という事になります。

昔は「動けない」ではなく「動かない」という覚悟なのですが、今風では「動けない」ので「何もしない」「何もできない」で「状況を見送る」という判断停止=他人や状況まかせでしかないので、意志がないため恨みがましくなってしまうのです。どうしようもない感が深層心理に強くある状態です。

かなり長くなりましたが、まとめていきます。

今、流行っている誰かが作り出した判断が「①合理手段」でメリットを確保し、「②理想手段」も他人に責められない程度にはあるような時に、そういう誰かの作った判断にばかり決めてもらって、自分の意見を持たないでいると、特に自分にしか分からない、自分だけの立場からの覚悟である「③覚悟手段」がないと、以下の2つの問題と1つの迷惑が発生します。

まず、状況による「やらされ感」ばかりを強く感じてしまうので、感謝や達成感や幸福感が無くなります。自己判断なくして自己肯定はないからです。当たり前です。

次に、「待って」いるようでも、実は状況のせいにしているので、深層心理では恨んでしまい、いわゆる「手放す」ことができなくなり、何かに依存してしまいやすくなります。覚悟による自己責任がないからで、これも当たり前です。

そして最後は、「自己判断をすることで自己肯定感があり、覚悟もあって自己責任を果そうとする、すごく昔ならまともである人」を見かけると、その人がすごく「非常識な自己中心的」な「迷惑なトラブルメーカー」に見えてしまうので、皆で徒党を組んで排除してしまうということをしてしまいやすくなります。

よくある多数派の暴力ですが、これこそ「自己中心的」で「迷惑」だと思うのですが、「皆と違って判断を自分でしている人」が「非常識」な「トラブルメーカー」にしか見えないのです。皆や自分にとって良いといえる意見ですら、そう見えてしまいます。

これは、よく頭の良い官僚タイプに見られる現象です。記憶力があって理解力がない状態に、覚悟がないだけでなってしまうからです。喜悲劇的です。自分たちが問題を解決する可能性も、自分たちで閉ざしてしまっています。覚悟がないと自分の間違いに気付けないので、実はこれも当たり前なんです。

以上が、覚悟がないと、「待った」ことにすらならないという話でした。


<狂気の天才を待つ時間>につづく



こんにちは、栗木ンディです。
森のトトロからお手紙をもらいましたので、何回かに分けてお届けします。
だって…長いんだもん!

一応、ご存知ない方のために簡単にお話しておきますが、
森のトトロは揉み師です。
たくさんのお客様(患者さん)や揉みの弟子たちと関わる中で、
トトロが感じていることを時々こうしてお伝えしています。

もともと、トトロは伝えたいことが膨大にあるので、ものすごく早口で、
左脳インプットタイプの栗木は、いつも「ポカーン」として理解できないんですが、
最近、長いけどわかりやすく文章にしてくれるようになってきたので、ちょっとずつ理解が深まってきている今日このごろです。(笑)
ではトトロのお話、どうぞ!




<「狂気の天才」な人について>

まず、長い前フリです。すいません。(笑)

「こわい」と感じること、について以前に書きましたが、そういう「こわい」ことが多い人って当然、拒否や回避に見える態度が多くなるわけです。

そして、周りはその理由が分からないか、納得できないような理由であるように感じます。普通なら気にしないような事を、そういう(こわいことが多い)人は気にして色々なものを、頑なに忌避してしまうので。

周りは、めんどくさいし、本人もめんどくさいと感じてはいるんですよ。
でも、「こわいと感じるとき」という文章の中でも一度話したように、そういう人たちは「とにかく安易な事を一切もう、したくない」から触りたくないだけなので、あるとき色々な意味で修業が済んだりして、「安易じゃないやり方を見つけた」りすると、突然、才能が開花して、苦手だったはずの分野に対してでも「天職だね」「天才だ」としか言いようがないような力を発揮することがあるんですよ。

私は、そういう状態になっている人や、そういう状態に向かう途中にある人の中に、まだ充分な環境などが足りなかったりして、才能を発揮しきっていなくても、「普通の年齢どおりに生きただけの経験値を超えた判断やセンスやこだわり」を見かけたとき、「すごい才能だな」と感じることが多いんです。

もちろん、本人も周りも、生きづらいストレスがかかっている事がままあり、楽な状態ではない事が多いです。そのこだわりが苦しみにしか感じない事のほうが多いはずです。

私は、そういう「安易なことを拒絶してたどり着いた才能」に敬意を表しているうちに、そういう方々を心の中で「狂気の天才」だと思うようになりました。そう感じるようになってしまった結果、彼らの生き方に共感してしまってもいます。

天才って、本人も周りも生きづらいんです。
「世間一般の、多数派の普通」との摩擦が半端ないからです。
彼らが自分を責めだすと、すぐに鬱状態や、鬱病が待っています。自殺も多いです。
多数派にとっては、その方が乱されなくて都合がいいので、排除されてしまい易いんです。

世間の、普通じゃない者への圧力は、すごいです。
少し前に「豪華客船・普通丸」という考察を書いたときにも話していますが、「世間一般の多数派の普通」の人たちは、多数派であるだけで、ずいぶん自信があるかのような態度を一見とっていますが、実は自分の行動に確信がないことの現れでもあるので、「狂気の天才」の状態の人から「世間一般の多数派」じゃない意見をもらってしまうと、自分のこれまでの「善悪」や「損得」や「実績」などの根拠になっている常識を、否定され攻撃されたように感じて、表面には出さなかったとしても、実はすごく憤っていたりします。

「世間一般の多数派の普通」が、皆にとって快適な正解を出しやすいのか、それとも皆で責任のなすりあいをしながら間違いを認めずに、むしろ間違いを拡大していきやすいのか、立場によって意見が分かれるところだと思いますが、そういう大きな問題ではなく、この場合のような小さな「大人げないのはどちらか」という話にしぼれば、多数派の方々は、多数なんだから、少数派の意見などは参考にしつつ、少数派は大変そうだな、と苦笑いでもしていればいいじゃないですか。

多数派なのに、少数を無理に攻撃や排除をしてまで、追放しなくてもいいと思います。
何とかして、目の前から消えて欲しいと思う方もいらっしゃいますが、たぶん考察するに、自分の行動に実はかなりの異和感を感じていて、無意識では罪悪感を感じやすくなっていて、だから「狂気の天才」タイプが近くにいるだけで苦しくなってしまって、それが重なって、何らかのトラウマになり、拒否状態になってしまっているのではないかと思います。こういう安易な拒否は、魂の課題として、残りやすいらしいのですが。(笑)

すると、生まれ変わりがあるなら、来世あたりでは、「安易に狂気の天才を拒否してはいけない」というこだわりを持って生まれてきて、こんどはワトソンさんのように、天才ホームズを支える役になったりするのでしょうか?
色々妄想すると、面白いです。

<「待つ」という状態>へつづく




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