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生きることにいろんなつらさを感じている人へ、
森のトトロが叔父から教えてもらった『豪華客船・普通丸』という例え話をしましょう。

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「普通」とは本来の意味は「普遍に通じる」という意味で、単なる多数派という意味ではありません。多数派という意味なら「世間一般」の「普通」とでも言うしかありません。

本来の「普通」は、もう普遍すぎて当たり前で意識しなくなった感じのもので、あまり話題にはなりません。(海外から見た日本やどこかの国の「文化」=「普通」について、のような形で話題にすることがあるくらいでしょうか。)

「世間一般」の「普通」は、現在の多数派が「普遍になるかも」と無意識に感じていて、つい「無言の押し付けになってしまって」いるものです。「なって」しまっているだけで、意識はありません。それに気付くくらいなら、実は普遍に通じていないことに気付けますから。

これは、暗示にかかっているのと同じような状態であり、その人の「世間一般」の「普通」を否定しようとすると、怒り出したり、内心で憤り始めます。

「暗示」というものは、かかる時は快楽を感じるのに、解けるときには反発や恐怖を感じてしまうものです。イメージとは逆ですが、誉めたりして「煽る(あおる)」方法が基本だから、そういう風になり易いんです。

そして、「世間一般」の「普通」というものは、「努力」や「成果」や「善悪」などという、重要なものの土台や前提条件になってしまっている「常識」という「暗示」だとも言えるので、それを否定されると、それまでの人生の努力や成果や善悪判断を否定された気分になってしまいます。

だから、「世間一般」に反した事を主張するものを、無意識で抑え込んだり否定してしまう。そして自覚もなく「そうなって」しまうだけなので、それをしている事を認めません。

「世間一般」の「普通」とは、そういう「変人を無意識で排除」してしまう仕組みです。

世界を大きな河に例えて、「普通」を「豪華客船・普通丸」という船に例えると、「世間一般の普通」こそが、大河を泳ぐ人々を、無慈悲にさえぎり、溺れさせ、傷つけ、上からあざけり、殺してきたんだ、という風に考察できるという事です。

自分の力で泳ぐ人々にも、矜持(きょうじ。誇りやプライドの意)や流儀があり、目的を持って泳いでいます。

むしろ、目的などはっきりしていないのは、「豪華客船・普通丸」の残酷さにも気付けない乗客たちであり、自分達は恐ろしい(と思い込んでいる)河で溺れないように、豪華客船から落とされないように、ぶら下がってでも、船にしがみつこうと、船の中で、地位や経済や名誉の争いをしているのです。

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トトロの叔父は、
「その豪華客船を一回おりてみないと、人生なんて、ちゃんと始まってないようなもんなんだけどな。」
「おりて、客船にまた戻ろうとするより、一回岸にあがって、見てみろと、言いたいね。」
とも言っていました。

でも「岸」とは、あの世との狭間の例えとしても使われる言葉だから、生きるか死ぬかをくぐって、生き延びてサバイバーと呼ばれるような苦労や艱難辛苦だったりするんですけどね。

それに、一度降りると、高級な常識的社交界ともいえる豪華客船には、なかなか戻りづらいから、「ちょっと変な客船おかしい丸」とか、変わった人達の集まりに参加したり所属してみたりなど、人生の船を乗りなおしたりしても、いいんじゃないかなとも思います。

「豪華客船・普通丸」に乗り続けるのも、そこから降りることも、どちらもなかなか大変な試練で、やっぱり客船に戻ったり、自分たち用の船を造ろうとしたり、一人で大河を泳ぐ方法を研究したり、「大河で死ぬまで泳ぐ会」を発足したりなど、みんな結構むちゃな試練を発想したりして、この世を泳いでいるんだというように、感じています。

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以前の僕は、「豪華客船・普通丸」にあまり関わらない方がいいと思っていましたが、最近は、それぞれの目的次第でいろいろに変化していくものだと気付き、結果、自分にとって最善を選べばいいのだ、と思うようになってきました。
この例え話が誰かの役に立てば幸いです。

ものすごく久しぶりの更新です、すみません。
森のトトロが最近仲間から受けた質問に対して答えたお話をご紹介します。

まず、質問は、
「こわい」という感情について、なんだかよくわからなくなってしまったので教えて欲しい。
ということなのですが…
この質問以前に、いろいろな会話が行われていて、いろいろ掘り下げていった結果、
この質問に到達した模様です。

ここから、質問者さんへのトトロのお返事をご紹介。

_・_・_・_・_・_
こわいと感じた場合、

まず、安易にその物事に関わることができないくらい、重要視しているものが、その中にあるということ。
安易にその何かをすれば、また過去世と同じような過ちを犯してしまう。と感じているということ。
そして潜在的に言えることは、そのこわい何かをしたり関わる時に、どうすれば安易ではないのかを探し続けているということ。

つまり、こわいと感じることの裏には、
以前の世界でした安易な過ちへの後悔と、
安易でない関わり方ややり方を目指す気持ちと、
安易を後悔して分かるまで触りたくないほど大切にしたい気持ち、
その3つが隠されています。

「安易」だと何を感じていたのかを見つけ、
安易じゃない方法をとうとう見つけると、
関わりたくなかったはずの、こわい状況のなかの仕事が得意分野になったり、天職になることも、ままあります。

「こわい」の裏には、何かを「安易」じゃだめだと感じる自分がいる。でも言葉には出来ていない。だから、固まってしまったり、拒否したり、逃げたようになってしまいやすい。

でも、安易に関わるのがイヤで、距離をとってしまうことが、そんなにダメだろうか?
最前線で敵前逃亡状態になるのはまずいから、だから距離をとる必要があるわけだ。

それが、普通の人たちより、何が安易なのか何が外道なのかわからないまま、何となく世間に関わっている人たちよりも、ダメなことだろうか?

いずれ、彼らのような、世間一般が普通だと思っている人たちも、
いつかは痛みを知って「安易の罪」や問題を知り、
簡単な解決策は無くても、せめて安易なことを繰り返すばかりで、
しかも、わかって認めてそれらをやるならば責任と学習があるからよいが、
自己認識するのも避けて、正当化しているばかりなら、それは人の道にはずれているのだと気が付く日がくると、そう思います。

こわいは、安易に気付く道、安易に気付いた過去を現在に取り戻す道のりだと、思います。
気付いたあとは、こわいは、安易を知る才能になっています。
安易を知ることを、才能と言います。
_・_・_・_・_・_

にゃにゃにゃー!
この話もまた深いなぁ。
期間的なものについても軽く話しておきましょう。
最初に「しっくり」を体験して、
一年ぐらい経つと、だんだん「感じてくる」んです。
それが言葉になるには、最初から見て「3年半」かかります。

丹田、みぞおち、眉間について、もう少し解説しておくと、
「丹田=できる」
「みぞおち=感じる」
「眉間=わかる」
と言いい換えることができます。

最初の一年は師匠から「できている」と言われても、
「感じません、わかりません」と思う人が多いです。
この順番は、世の中では
「わからないと感じられない、感じられないとわからないし、できない」
と思わされていますが、実際には、
「できてからそれを感じることができる、でも言葉にできず説明できない」
が当たり前なんです。

ためしに彫刻家に弟子入りして、
彫刻とはなんたるかを「わからないのできません」と言ってみてください。
一日で破門になるから(笑)。
「オレだって何十年も彫刻をやってなんなのかわからないんだぞ」
って言われて終わりですよね。
わかってからじゃないとやる気が出ないなんて、
軽くて軽くてもう人生鼻息で飛ぶくらい軽いです。

そういうことばかりやっている人が多いんです。
重みがあるものなら、できたとしてもすぐには感じないし、
できて感じたとしても、それが言葉になるのは3年半も後です。
それが何かを覚える時の本当の順番です。
だけど、そういう職人的な順番で教えると
「あの会社はちゃんと説明をしてくれない。
コンプライアンスがダメな新人教育ができないダメな会社だから、
私はできなくていいんだ」
みたいな新入社員が増えたの。
そうして一生、イヤミな三流になっちゃうんですよ。

まあ、本当に新人教育がダメだったり、
試用期間内に、新人の親族に商品や契約を売り付けることだけを考えているような会社も最近多いようなので、
そういう状況は、単に受け入れて努力しても苦しいわけで、非常に難しい社会になってきています。
 自分の縁と運で出会った体験の全てを、味わって次に繋げるしかないです。
「戦争や訴訟や殺し合い」にならない程度の「争いや摩擦」は、学習の機会としつつ、
逃避じゃなく回避して離脱するのがいいでしょう。

 逃避と回避を区別することも大切です。
逃避は目的にたどり着かなくてもいいやと思うこと、回避は目的にたどり着くためにすること、なんですよね、実は。
 わかりやすく例え話をするなら、
「あなたはドライブをして目的地に向かう途中でした。目の前に地割れのような谷が見えてきたので、あなたはアクセルを踏み谷をジャンプして飛び越えました。」
というストーリー、なんか変ですよね。
「あなたは左右どちらかにハンドルを切り、谷を越える橋がかかっているところを見つけて渡り、目的地にさらに向かいました。」の方が自然ですね。
 ところが、橋を探しに迂回したり、一度家に帰って装備を準備しなおしたりすると
「逃げるな、チキン。」と言われるのは日本でも海外でも同じで、
これこそ暗示であり、人を死に追いやる呪縛なんです。
バックトゥーザフューチャー2のラストのネタがこの辺をかすってましたね。
主人公がチキンと言われて行動を変えるシーン。
 無理にジャンプしたとして、半々の確率で跳べたとしても、
半分は落ちても逃げずに格好つけたかっただけで、実は逃避ですよね。
逃げたと罵られても、迂回したり準備しなおした人の方が、目的にたどり着くための回避をしたことになります。
本当に逃げていないのはこっちの方ですね。
 つまり、格好つけて飛ぶ方が半分は逃避で、
格好悪いように見えても迂回する方が、
実は回避しただけで逃避せず目的にたどり着くかもしれないっということは想像できますね。
「チキン」と言われることを怖れて格好つけて無責任な外野に殺されるより、
逃避と回避を区別して生き延びた方がいいですね。

今日の話は終わりとします。長い話を聞いて下さって、本当にありがとうございました~。


これが、弟子になりたいと言う人に、僕が最初に言っちゃうお話です。
整理して言うと、

「一度ゼロになる」
「カッコ悪く覚える」
「知識ではなく自分の体感からの感想で言葉を」


そして、
「自分を統合させるための3原則」
として後半に言っているのが、
「4つの気質」と、
「心の中庭で氷付けの自分の顔を見ると呪いが解けて統合しやすくなる」話。
自分にかけている無意識の縛りのようなものが解けていきます。

そして確認は「自分の体感」「しっくり」「なっとくいく」「いいかんじ」みたいなもので、
「しっくり」を師にするということ。

こういう話を全部先に言っちゃうと、無駄な競争がなくなります。
もちろん必要な競争を否定しているわけではありませんが、
「何回言ったらわかるの?」とか牽制したり、
反発した人をつぶそうとしたりする人って必ず組織にいますよね。
「昨日先生に反発していたあのバカをつぶしておいて
三回言ったらわかるんだって教えておきました」みたいな行動、
そういうのはぼくは徹底的にやめて欲しいのね。
わざわざすごく居辛い場所を作って、
こっちが何倍も生徒に気を使いながら生きていかなくちゃいけないなんて状況イヤですから。
競争して牽制して、どっちが先に覚えるかとか、もう本当にいやなのね。
だから無駄に競争する必要がないように4つの気質を教えてしまうんです。

体感については「自分で判断」すること。
そして恥ずかしい自分は心の中庭に埋まっているからというのは
実は「脅し」なんですよ。
「ちゃんと見えてるからな」っていう脅しです、これも。

そして、テキストを最初から使わないこと、
カッコ悪く質問、疑問、反発していいこと、
「ハイわかりました」を強要するとか、
先輩がこう言ってるんだから後輩は従うしかないとか、
そういうくだらない空気を一切やらせないという縛りを、
頭では覚えていませんが、心にしっかりザックリと最初に言うんです。
(栗木補足:トトロはこの長い話をもちろんテキストにしていません。
ガーッと一気に話してしまうので、聞いている方はぐったりして、もはや頭では理解できません。
これをテキストに起こすのに栗木も何年もかかりました。)

こういう話が通じない人間は、そもそも弟子にしてはいけないんです。
「みだりに師につくな、みだりに弟子をとるな」
という中国の古来の言葉通りです。
だからそういう場合は優しく断らさせて頂きます。

断り方、知りたいですか?今まで何人か断ってます。
例えばアロマテラピーとかリフレクアロマをすでに習っている方で、
これは弟子にしちゃいかんと思った場合、
「もう習っているものがあなたにはあるんだから、それを用いて自分流を作った方がいいですよ」
という話をするわけです。
「教えることはない」という表現をしないように見えるけど
「ないよ」と言うんです。
または全然違うものであると伝えます。
「ちゃんと習っていなかったから、リフレクソロジーを習いたい」というような場合、
うちは全然それとは違うから、リフレクソロジー協会のものをとった方がいいですよ、と。
あとはデコルテとかアロマとかエステで揉んだり、
ハワイのロミロミに興味があるなら、
それをやればあっと言う間に自分の店ができちゃうから、
もうやった方がいいよ、という話をします。ひとつのパターンとしてはね。

あとは「ちゃんと覚えたい」の「ちゃんと」が過ぎる人とか、
もうすでに何か覚えたものがあるのに動けないだけの人とか、
いろんな人がいるわけですよね。
そういう人には「エール」を送ることにしてます(笑)。

でも僕的に弟子にするのはどうかな?と思ったとしても
「ここでこれをやるしか道がない」というケースの人もたまにいるので、
そういう人は残っていきます。他に方法がないんですよね。

そうではなく、自分や家族にもたいした負荷がかかっていないのに、
こんなこと(揉み)をやろうとしたらね、
「ちゃんとしたい」という思いが強くなり過ぎるんです。
ちゃんとだろうがなんだろうが関係ない、
よくなればいいんだ、改善すればいいんだ、
なんでもいいって言う人ならいいんですけどね。

この話は、
「競争とか争いとか牽制とか馬鹿馬鹿しい」って言ってるようなものだから、
普通は話を聞けばやらなくなりますよ。
それでもしそうな人ってのは最初にひっかかるからわかるんです。あやしいって。

普通の場所(教育現場や会社など)ってストレスも多くて苦しいですよね。
人工的にいい環境を作るために、僕は努力を払ったわけです。
最初に「わかってるからな」って脅しておくことでね。
まぁ脅さなくてもいいんですよ、優しく、まるで賢者みたいに話せばいいんですから。

「教育は脅しよ」ってうちのおふくろはよく言ってたなぁ。
「脅し」というのはもちろん言葉の上のジョークでもあります。
ぼくの教育は脅しと癒しだったの。
でも脅さなくちゃいけない時に癒して、癒さなくちゃいけない時に脅しちゃいけないなぁと思います。

なんだか道徳的なことを言ってますが、僕は道徳は実は好きじゃないんです。
しかし、実効性があるんですね。
例えば姿勢がよくないと、
「眉間、丹田、みぞおち」がちゃんと機能しないから、
姿勢が良い方が実際身に付くわけです。
だから実効性がない道徳はほとんど廃れていったんだけど、結構残ってますよね。

世間で常識と思われるものは、突き詰めて検証していくと逆の結論が出ることも多いんです。
でも検証したことがない人はなんとなくやってるわけです。
こちらは何倍もの努力を払って検証しているので、
そうすると最初から主張しなくても通っちゃうんです。

自分を統合させるためには、この4つの要点を把握した上で、
あと二つ追加で言っていることがあります。

自分の家の絵、庭の絵を描いて下さいという心理テストがありますが、あの「心象風景」を使います。
その家の裏庭に当たる場所に、
「過去に自分が恥ずかしかった時の自分」が、氷付けで埋まっているんです。
これはイメージの話ですが、
心象風景の裏庭から掘り出した「恥ずかしかった自分」の顔を見ることができたら
呪いが解けている、自分の過去の縛りがとれているということなんです。
これが自分を統合させるために必要になってきます。

自分を統合させる要点というのは、
4つのタイプがあることを知り、
恥ずかしい自分が氷付けで自分の心の裏庭に埋まっていることを認識すること。
それをひとりずつ顔を見ていくと解けていくということなんです。

最後に、もうひとつの要点が「師匠」にあたる人。
うちは「師匠」とか「先生」とか呼ぶことを軽く禁止しているんですよ。
言葉狩りをするほどではありませんが。
なぜかというと、
「師匠」「先生」と呼ぶ事によって階級というか
立場がはっきりしてしまいますよね。
階級をつけると伸びが悪いし、お互いに縛りが生じてめんどくさくなるんです。
ただ「弟子」という言葉は使います。弟が兄を超えてもいいからね。
ままあるわけです、そういうことは。
それで「弟」はいいでしょうということで使っているんです。

だから、師匠に当たるのは「自分の身体意識」だと思って欲しいんです。
「しっくり」することを師匠にしてください。
もうちょっと詳しく言うと
「丹田、みぞおち、眉間」を
それぞれ「しっくり、いいかんじ、なっとく」するように、
自分の体感を師匠にして確認していくと、いい認識になります。

以前、揉みの授業の時、
モデルで揉まれている人が「痛い痛い」と言っているのに、
「もっと押してもいいですか?」って僕に聞いた人がいるんですよ。
今、目の前で押されている人が痛がっているのに、
横にいる僕に聞くというのは、おかしいことだと気付かない。
僕が「死ぬまで押していい」と言ったら死ぬまで押すかもしれませんね、この人は。
こうなっちゃおしまいです。
自分の体感で判断できない人間が人の身体を触ったらおかしいことになります。

どんなことでも実は繋がっています。
自分の身体の体感意識を育てることを目指してください。
例えば、右の道を行ったらいいか左の道を行ったらいいか、と言う状況の時に、
「直感で選べ」というと「どうしたらいいかわかりません」となりますよね。
そこで「しっくりする方に行け」というと
「じゃこっち」って意外と決められるんです。 

「直感を鍛える」というと、熟語だしよくわからなくなるけど、
「しっくりする」方を選ぶようにしていくと、勘がよくなるんです。
それは身体認識の勘なんですね。
それが自己判断の基本になります。
頭が基準を設け、身体が体感を設けて、どうするかを心で決めるわけですね。
その身体認識を師匠と言うなら「師」にすればいい。
「しっくり」を判断の基準にするということです。


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